大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和28年(ラ)43号 決定 1953年9月03日

抗告人 石田ヤヱ子

主文

本件抗告は棄却する。

理由

抗告人は「原審判を取り消す。未成年者松村千鶴子、同松村照枝の後見人に抗告人石田ヤヱ子を選任する。」との裁判を求め、その抗告理由の要旨は「抗告人は昭和十九年に松村源六と婚姻し、同人との間に長女松村千鶴子、二女松村照枝を挙げたが、昭和二十七年八月十二日松村源六を未成年者両名の親権者と定めて協議離婚した。ところがその後間もなく源六は死亡した。父を失つた子の養育の主体となるべきものは母であり、母の親権又は後見の下で成長を願うのは親子自然の人情であるから、母を未成年の子の親権または後見の任に当らすべきである。よつて抗告人は原審家庭裁判所に後見人選任の申立をなし、その呼出を受けたとき、抗告人は千鶴子、照枝の両名に対する情緒纒綿の心情を披瀝し、抗告人を後見人に選任せられたいと懇請した。ところが原審は右両名とは無縁の他人である福原快念を後見人に選任する審判をした。思うに、原審は後見人は親族であろうと他人であろうとそれは問題外で何人を選任するも自由であるとして右福原を選任したものであろう。しかしながら、父を失つた子の求めてやまない実情は実母のそれに勝るもののないことは真理であり、又父を失つた子に対する母の愛情は痛切で、子の財産、環境、身上、心境に種々思いを廻らし、母後見の下に慈愛を施し養育しようと欲するのは親子自然の人情である。結局母と子のつながりという何よりも重要な自然的事実を基盤として後見人は選任せらるべきである。抗告人には後見人となるべき欠格事由はない。この抗告人を排斥して無縁の他人を選任したのは、前述の人間に共通な親子自然の人情を無視し、父を失つた子に対する養育の主体を母とする思想を顧みないもので、父母共に生存しない場合に無縁の他人を選任することとは大いにその趣を異にするのである。本件の場合において敢て無縁の他人を選任したのは甚だ失当であるから、原審判を取り消し、これに代る裁判を求める。」というにある。

そこでまず父を失つた未成年の子は母の親権に服すべきものであるという抗告人の主張について考えてみる。父母はその婚姻中は相共に平等の立場において未成年の子に対する親権者であり、共同してその親権を行使し、その間にいずれか一方が死亡したとしても、その後は生存する父又は母が単独で親権を行使する(民法第八一八条)のであるが、父母が離婚した場合には事は自ら異つて来る。すなわち父母が協議離婚又は裁判上の離婚をするときは自主的な協議或いは協議に代る審判もしくは離婚判決によつて、父又は母のいずれか一方だけを子の全員或いは一人もしくは数人の子に対する親権者と定めなければならない(民法第八一九条)のであるから、その反面において、離婚は共同親権者である父母のいずれか一方にとつての従前有していた親権を関係的に喪失することを意味するのである。この親権を失つた父又は母は再婚して元の鞘に納まるか、他方の親権者に服している子を養子に迎えるかすれば再び親権者となることは民法第八一八条の規定上明白であるし、又民法第八一九条第六項の規定に基く親権者変更の審判によつてその者が親権を回復する場合もある。元来離婚による一方の親権喪失はその者が親権者たる資格の点で不適当であるからではなく、全く夫婦共同体の破壊に伴い子の利益のためにする円満な親権の共同行使が期待されないことを民法が顧慮した結果に外ならない。このことだけからすれば離婚後親権を行使している父又は母が死亡したときは、生存する母又は父に親権が当然移行するという抗告人のいうような考え方も成り立たないでもない。しかしこの考え方を是認すべき成文上の根拠は外にない。むしろ民法は反対の態度を採つていることの一端を親権者変更の規定を置いたことによつて明らかにしていると思う。けだし親権者の変更はそれを相当とする事情の存することが肯定される場合に子の親族の請求に基く家庭裁判所の審判によつて形成されるものであつて一定の事由の発生に伴う当然の帰結として招来されるものではない。そこには子の利益のために慎重な手続と態度が要求されているのである。そして右親権者の変更は親権を行使している父又は母の生存中に限つて行われ、その死亡後にはその行われる余地のないことは自明である。なお右親権者の死亡によつて当然生存する他の一方に親権が移行するものとすれば折角の親権者を一方から他方へ変更する審判がなされたにかかわらず、元の一方が再び親権者になることになる不都合な場合も考えられるのである。思うに、民法は離婚後親権を行使している者の死亡したときには、離婚後の事態が進展変化することも新たな事情の発生することも十分に考えられるので、子の利益のために、これに適応するよう、それがためには、かつての親権者の存否のみに捉われず、事を改めて合理的に処理する必要がありそうすることを妥当としたものといわなければならない。以上の観点から、未成年の子の父母が離婚し、その一方である父又は母が単独で親権を行使している場合に、その者が死亡したときは、たとえ他の一方である母又は父が生存しているとしても、親権は右生存者に移行することはなく、従つて未成年者に対して親権を行う者がないときとして後見が開始するものと解する。これと反対の抗告人の主張は採用しない。

よつて進んで、抗告人を後見人に選任しなかつた原審判は失当であるという抗告人の主張について判断する。抗告人は事件本人である未成年者松村千鶴子同松村照枝の実母であり、世に子を思わぬ親はなく、母を慕わぬ子のないことは抗告人のいうとおりであろう。しかしながら、未成年の子の後見人は諸般の事情に照して子の利益のために最もふさわしい者を選任すべきであつて、この観点からして、母はその有力な存在であることも多いが、時としてそうでない場合もあるわけであるから、父を失つた子の後見人には欠格事由のない限り母を選任すべきであるという理はないのである。原審並びに当審での事実の調査及び証拠調の結果によつて認められる、松村源六は抗告人と京都市に居住していたが、昭和二十七年八月抗告人の行状に因して協議離婚することになり、源六は追い出されるようにして千鶴子照枝の両名を伴い帰郷したものの、思いなやんだ末、同年九月十一日鉄道自殺を遂げたこと、源六には先妻との間に勇(昭和五年生れ)芳雄(昭和八年生れ)の両名があり、現に勇が千鶴子、照枝の面倒を見ていること抗告人にも先夫との間に生まれた子供があり、その二人と一緒に暮し現在ハウスメイドとして働いているものであること、その他諸事情に照せば抗告人を千鶴子、照枝両名の後見人に選任しなかつたことを不当ということはできないのみならず、以上の事情を考慮して、第三者の立場にある者の中から後見人を選ぶ方針を樹て、右両名の居村の寺院の住職でかつ教職にある福原快念を後見人に選任した原審判は妥当というべきである。

よつて本件抗告は理由がないから、主文のとおり決定する。

(裁判長判事 田中正雄 判事 神戸敬太郎 判事 平峯隆)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例